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広島高等裁判所 昭和57年(う)30号 判決

被告人 河内順幸

昭一五・九・三生 会社員

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人長谷川茂治、同清原雅彦各作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は検察官蓮井昭雄作成の答弁書記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。

これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

長谷川弁護人の控訴趣意中事実誤認の主張及び清原弁護人の控訴趣意について

一  所論は、要するに、「被告人は、原判示工場の水圧テスト室において、鉄製防護扉(フード)を閉じるための操作ボタンを押すに際して、同工場所定の水圧試験機マニユアル操作教育資料に基づき同工場から教育を受けたとおり、相手方作業員尾園栄次からの挙手及び笛による合図を確認していて、それ以上特に同人の安全を確認する義務はない。ところが、原判決は、被告人は尾園からの合図を受けていないのに合図があつたものと誤信して、同人の安全を充分に確認しないで操作盤のボタンを押した過失があると認定して被害者を尾園とする業務上過失致死罪の成立を認めたが、右は誤認であつて、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れない。」というのである。

二  ところで、原判決は、「罪となるべき事実」として、被告人は、岩国市日の出町二番一号所在の帝人ラツカー株式会社岩国工場製造部に勤務し、油井用鋼管強度検査のため同工場の水圧テスト室において水圧検査業務に従事していたものであるが、昭和五五年三月一日午後一一時三〇分ころ、同所において、鉄製防護扉(フード)の開閉操作盤の操作とプロテクター取付作業に従事していたところ、当時、同所には、尾園栄次(当時五〇年)が被告人とペアで水圧テストとプロテクター取付作業に従事していたのであるから被告人としては、鉄製防護扉を閉じるための操作ボタンを押すに際しては、同会社の作業安全規程に定められたとおり、相手方作業員尾園からの挙手又は笛による合図を確認するのはもちろんのこと、同人の安全を確認したうえで、右ボタンを操作して、防護扉の閉鎖に伴う事故発生を防止しなければならない業務上の注意義務があるにも拘らず、右尾園からの合図を受けていないのに合図があつたものと誤信して、同人の安全を充分に確認しないで操作盤のボタンを押した過失による防護扉に接近して、ウエイング作業場の工員に、防護扉の隙間を通して、作業工程についての連絡事項を伝えていた右尾園を防護扉と側壁との間にはさみ、よつて同人に対し、肝破裂、脾破裂、下大静脈破裂による腹腔内出血の傷害を負わせ翌二日午前四時ころ、岩国市黒磯町二丁目五番一号の国立病院において、同人を前記傷害により死亡させたものである。」と判示している。

三  そこで、以下、所論にかんがみ、原判示に即して原判決認定の過失が認められるか否かについて検討するが、原判決挙示の関係証拠によれば、右判断の前提となる外形的な事実関係として、

(1)  本件の事故が発生した場所は、帝人ラツカー株式会社岩国工場(以下岩国工場という)水圧テスト室であつて、同室は東西約一九メートル、南北約一・九メートルの長方形をなしていること、同室の南側及び北側には鉄製の側壁(高さ八五・八センチメートル、幅五センチメートル)がそれぞれ設けられ、各側壁の上部には鉄製防護扉(以下フードという)各一枚(長さ約一六メートル、幅五七センチメートル、厚さ一・二センチメートル)が設けられ、右のフードは空気圧で開閉するようになつていること、

(2)  被告人は、岩国工場に勤務する工員であつて、水圧テストなどの作業に従事していたが、原判示の日時においても、前記水圧テスト室で下請け(有限会社原田電装)の従業員尾園栄次とペアになつて油井用鋼管(以下パイプ)強度検査のための水圧テストなどに従事していたこと、

(3)  被告人と尾園は、右日時ころ前記水圧テスト室に入り、被告人が同室のボツクス側(東側)に、尾園がピン側(西側)に立ち(両人間の距離約一四・七メートル)、互いに向かい会つた後、被告人は反対側(東側)を向いて水圧試験機手動操作盤(以下操作盤という)に向かい、フードを閉じるための操作ボタンを押したこと、

(4)  尾園は、その間にフード(南側)の側に近づき、開いている状態のフードと鉄製側壁の隙間に体の上部を突込んで、前記水圧テスト室の外にいた工員竹林正明に作業工程について注意しその直後、被告人が前記ボタンを押したため閉じたフードと側壁に挾まれ、原判示の傷害を受け、死亡するに至つたこと、

以上の事実が認められ、検察官、弁護人ともにこれを争わないところである。

四  そこで、まず、被告人が、原判示のように、尾園から合図を受けていないのに、合図があつたものと誤信した事実が認められるかどうかについて検討する。

関係証拠とりわけ被告人の原審及び当審供述、津田貞雄、松田雄峰の原審及び当審各証言、水圧試験機マニユアル操作教育資料によれば、被告人は、同工場からボツクス側作業員としてパイプの水圧検査のため、フードを閉じる場合、所定の位置に立つて、ピン側作業員の笛と挙手による合図を確認したうえで、前記の操作ボタンを押すよう教育されていることが認められる。そして、被告人は、捜査官に対する各供述調書、原審及び当審における供述を通じ一貫して本件事故の前に所定の位置に立つて尾園の笛及び挙手による合図を確認したうえで前記操作ボタンを押した旨述べているところ、原審及び当審で取り調べた証拠を仔細に検討してみても、右の供述を否定し、被告人が尾園からの合図を受けていないのに合図があつたものと誤信したと認定するに足りる証拠はない。

この点について原判決は、「証拠の標目」の項中の弁護人の主張に対する判断を示した部分一の1ないし3において、原判示のとおり被告人が右の点について誤信したと認定する根拠について説示しているので(以下これらの説示を順次「原説示1」などという。)、これらの説示について検討する。

原説示1は、警察による検証の際に行なわれた測定の結果(証拠略)に基づき、被告人の供述によれば、尾園が合図をしたという場所から、同人がフードの傍まで移動し、本件事故が発生するまでの時間と、被告人が右の合図を受けてから前記ボタンを押すまでの時間を比較し、前者の時間が七・〇ないし七・三秒以上であるのに対し、後者の時間が六・〇ないし六・五秒と食い違つていて、被告人が右の合図を受けたという時点には、尾園はフード下に近付いていたという推理が可能であるとし、尾園から合図を受けたという被告人の供述の信用性が薄いと判断している。

しかし、右の検証の際の測定の対象となつた被告人の行動は、作業の実態に反するもので、右の合図を受けてから操作ボタンを押すまで約二〇秒を要するとの証拠(証拠略)もあるうえ被告人や尾園の前記の行動に要する時間は、その時その時のいろいろな情況によつて変動する性質のものであつて、機械のような正確さを期待することはできないから、原判決のように特定の実験の際の測定値に基づき、被告人や尾園の右各行動に要した時間を算出し、それを現実の各行動のとおりの正確なものとする前提に立ち、両者の時間に差があることを根拠として原説示のように認定することはできない。してみると、原説示1のような根拠によつて、被告人の供述の信用性を左右することはできない。

原説示2は、下中信雄、竹林正明は本件事故の直前に、前記水圧テスト室の室外の笛の音による合図を聞くことが可能な位置にいたのに、右の笛の音を聞いていないことからすれば、被告人が尾園から合図を受けた可能性は薄いと判断している。

しかし、下中信雄の原審証言によれば、同人は、本件の事故があつたころ、前記水圧テスト室の外で耳栓をしてエアブローの作業をしていて、右のような情況のもとでは、尾園が合図の笛を吹いたとしても、下中のいた位置では、これを聞くことができないことが認められる。また、竹林正明は、その原審証言の中で、「自分は、作業をしていたところ、尾園から呼ばれて話を聞き、それが終わつて二、三メートル歩いたとき事故が起こつたが、笛の音は聞いていない。しかし、エアブローの作業がなされている状態では、笛の音は聞こえない。」と供述し、当裁判所の検証調書によれば、エアブローをしている状態では、竹林が尾園と話をしていた位置において合図の笛の音は聞こえないことが認められることからすれば、尾園が合図の笛を吹いた場合、竹林がその音を聞くはずであるということはできない。してみると、下中、竹林が合図の笛の音を聞いていないことに基づき、被告人が尾園から合図を受けた可能性は薄いとした原説示2の判断は誤つている。

この点について、検察官は、弁論の中で、(1)右の当裁判所の検証について、右の検証時における騒音は、本件事故発生時における騒音と同程度ということはできないし、前記水圧テスト室は改造されて当時と異なつており、当時の状況を正確に再現できたかどうか疑問である、(2)竹林、下中は、右事故発生時に尾園のうめき声を聞いているが、そうだとすれば、笛の音は当然聞こえたはずであるなどと主張している。

そこで、右(1)の点について検討すると、関係証拠を精査してみても、右検証の際の騒音と事故当時の騒音と騒がしさの程度が異なると認めるのに足りる証拠はなく、また、本件事故後、前記水圧テスト室が改造されているものの、右の改造によつて同室外における騒音の状態などが変化し、同室外で笛の音が聞こえるかどうかに影響を及ぼすとする根拠もない。

次に、同(2)の点について検討すると、なるほど、下中、竹林の原審各証言によれば、右両名は、いずれも本件事故発生直後、尾園のうめき声を聞いていることが認められる。しかし、右のうめき声がしたとき、エアブローの音が一時止んでいたり、低くなつていたりしていた可能性も否定できないなど、笛を吹いたときとうめき声がしたときと騒音の状態が同一であると認定するに足りる的確な証拠はないうえ、うきめ声のような肌で感じる異常な音声は、騒音の中でも聞こえやすいということも考えられるから、下中、竹林が尾園のうきめ声が聞こえたからといつて、合図の笛も聞くことができたはずだということはできない。

原説示3は、尾園がフードが閉まることを承知で前記三の(4)で述べたような姿勢をしたとすれば、自殺行為であるか、作業用のシンナーを吸い込んで倒れたかのいずれかであるとしか考えられないが、実際には自殺行為やシンナーによるものでないことが証拠上明白であるから、右のような姿勢をした尾園がフードを閉めることを認める趣旨の前記の合図をしたとは考えられないと判断している。

しかし、松田、津田の当審各証言、被告人の当審供述によれば、右の合図の有無を問わず、フードの下に入ることは危険な行為であつて、厳しく禁止されていたことが認められるうえ、作業に対する慣れなどから危険を忘れて、合図をした後、前述したような姿勢をするということは有り得ないことではない。してみると、尾園が右のような自殺行為的な行為をすることは有り得ないとの前提に立つた原説示3の判断も誤つている。

以上のとおりであつて、原判決が、被告人は尾園からの合図を受けていないとの判断の根拠として説示するところは、いずれも十分なものではなく、ほかに右の合図がなかつたことの根拠となる証拠はないから、被告人が尾園から右の合図を受けていないと認定することはできない。しかるに、本件の事故当時、被告人が尾園から合図を受けていないのに、合図があつたものと誤信したと認定した原判決は、事実を誤認したものというほかはない。

五  次に、被告人が尾園の安全を確認したうえでボタンを操作する義務(とりわけ、当審における訴因変更によつて明確にされた尾園が所定の位置にとどまつているかどうかを確認したうえで、右の操作をする義務)に違反した過失があるか否かについて検討する。

関係証拠とりわけ松田、津田の原審及び当審各証言、被告人の当審供述、水圧試験機マニユアル操作教育資料、作業安全規程、水圧試験機作業標準によれば、岩国工場の水圧テスト作業の安全確認についての方針、被告人など従業員に対する教育などについて、

(1)  岩国工場では製造作業の安全管理に関する総則として作業安全規程が制定されていて、右規程に基づき水圧テスト関係の実作業を進めるに当つての手順書として「水圧試験機作業標準」があり、更にその手順を細分化して詳細に表現し、各作業者がしなければならない確認事項と合図を明文化した「水圧試験機マニユアル操作教育資料」が作成されていること、

(2)  被告人(本件事故までの水圧テストの経験約一か月)や尾園(右の経験約二か月)ら岩国工場の水圧テスト関係の作業員は、右の作業を担当するに当つて、主として右の「水圧試験機マニユアル操作教育資料」に基づく机上教育及び実地教育を受けているが、その際右の教育資料に明文化されていない細かな手順についても口頭で指導されていて、これらの教育された内容をそのまま実行するよう指示されていたこと、

(3)  右の教育資料には、水圧するためのフードを閉める場合の手順について、ピン側作業員(本件事故の際には尾園)は、定位置に立ち、パイプのカラマークを確認し、水圧すべきかどうかを確かめ、周囲の安全を確認して、水圧すべき時は笛と挙手で合図すること、ボツクス側作業員(本件事故の際には被告人)は、応答挙手してピン側作業員が水圧すべきと合図したときパイプのカラマークを確認し、水圧すべきかどうかを確かめ、水圧する場合は周囲の安全を確認したうえ、操作盤のNO5の上ボタンを押す旨が記載されていること、

(4)  前記の教育の際、右教育資料にいうところの周囲の安全確認というのは、ピン側、ボツクス側それぞれの周囲の安全の意味であつて、ピン側、ボツクス側の中間の地点から自己側の部分の安全のみを確認するよう口頭で指導されていたこと、

以上の事実が認められ、記録を精査しても右認定を左右するに足りる証拠はない。

これに対し、原判決は、「証拠の標目」の項中の弁護人の主張に対する判断を示した部分の二項において、(イ)下中信雄は、その原審証言の中で、「ボツクス側作業員は、ピン側作業員からの合図があれば、更にピン側の安全を確認しなくともよいとまでの指示を受けていない。」旨供述していること、(ロ)ボツクス側作業員は、自己の安全を確認したらピン側の安全を確認せずにボタン操作をせよというような、操業の安全の見地から無謀と思われる指示を、企業の安全作業の責任者がするとは、考えられないこと、(ハ)津田は、その原審証言の中で、ボツクス側作業員の安全確認を自己周辺に限つておかないと、操作盤の操作が不正確になるというが、この場合自己の周辺というのはボツクス内の位置からストツパーまでというのであるから、その安全を確認するためには、ボツクス側作業員はその視線を操作盤から離さなければならないことになるので、視野を狭い範囲に限定することの効果がどの程度あるか疑問であることを根拠に前記教育資料が定める周囲の安全確認義務というのは、双方の作業員が相互にフードから安全な位置にいるかどうかを確認し合う意味に解するのが妥当であると説示している。

しかし、下中の原審証言、松田の当審証言によれば、下中は昭和五五年一月に発生した水圧テストの際の事故に関係したため、それ以後水圧テストの作業に就いておらず、右事故の経験をふまえて作成された前記教育資料による教育を受けていないことが認められるから、下中の受けた教育、指示がどのようなものであつたかは、前記教育資料が定める安全確認義務の内容を理解するうえで意味をもつものではない。次に、関係証拠とりわけ松田の原審及び当審証言によれば、右の教育資料に基づく作業員に対する教育では、水圧テスト室が細長い形状であるから、これを中央付近から二分し、ボツクス側及びピン側の各作業員それぞれの安全確認の守備範囲を定め、相手方の安全確認を信頼して作業を進める建前がとられていたことが認められ、右のような考え方に基づく、前記(3)、(4)の安全確認についての教育内容がその当否について批判の余地があるにしても、原判決のいうように企業の安全作業の責任者がそのような教育をすることが考えられないほど無謀なものということはできない。また、原判決が引用する津田証言中の安全確認と操作盤の操作の正確性についての部分は、右の操作の正確性を保つためには、一旦操作盤に向つた以上は後ろを振り向いてピン側の安全を確認するようなことをしてはならないという趣旨のものであり、同証言のいう自己の周辺の安全確認をするのは、操作盤に向う以前のことであつて、同証言を精査してみても、一旦操作盤に向つたボツクス側作業員が周辺の安全確認のためストツパーの方を振り返るようにとの教育がなされている旨の供述はないのであるから、原判決の前記(ハ)の説示は、その前提を欠くものである。以上のとおりであつて、原判決の前記(イ)ないし(ハ)の各説示は、いずれも、前記教育資料所定の安全確認義務の範囲を原判決認定のように解する根拠となるものではない。

ところで、関係証拠とりわけ被告人の原審及び当審供述によれば、被告人は本件事故の直前、前記水圧テスト室のボツクス側の所定の位置に立つて、尾園が笛と挙手によつて水圧すべきであるとの合図をしたことを確認し(前に説示したところから明らかなように、正確には右の合図を確認していないと認定できないというに止まるのであるが、被告人の利益に解する以上、右の合図を確認したと判示せざるを得ない。)、応答挙手し、その際尾園がピン側の所定の位置に立つているのを確認し、続いて未テストパイプのボツクス側のカラマークやドープの塗り具合を確かめ、払出口の中央ストツパーの付近から自分の傍までの安全、受入口の中央ストツパーの付近から自分の傍までの安全を順次確認し、次に自分の足許を見てから後ろを向いて操作盤に向い、フードを閉めるためNO5の上ボタンを押したことが認められ、記録を精査しても右認定を左右するに足りる証拠はない。被告人がした右のような安全確認は、前記教育資料及びこれに基づく教育に従つたものであつて、右の教育資料などを前提とする限りなんら誤りがないものというべきである。しかし、右のように岩国工場の内部規定や教育に従つたからといつて、直ちに被告人がその注意義務を尽くしたものということはできず、場合により、右の内部規定や教育に基づくもの以上の前記の作業による危険の発生を防止するため必要な注意義務を科されることがあるのは、もとより当然のことであるので、右の見地からの検討を加えることとする。

前記教育資料及びこれに基づく岩国工場の教育は、共同して危険な作業を行なう者相互間において、それぞれの守備範囲を定め、各作業員は共同作業の相手方が、その担当する守備範囲において危険防止のための注意を尽くしていることを信頼して、自己の守備範囲において要求される注意を尽くせば足り、右の相手方が注意を怠るものと予想したうえで万全の措置をとることまで要求されないという考え方を前提としていて、それなりの合理性があると考えられる。もつとも、本件の場合におけるように、自己の周囲の安全を確認するに当り、視線の対象を中央ストツパー付近から相手方作業員の位置付近まで延長したり、又は操作盤に向つた後、振り返つたりして相手方作業員が所定の位置にいることを確認したりするというような比較的軽い負担ですむような注意義務まで否定することは、作業の能率を重視するあまり安全面の配慮が不十分なのではないかとの疑問もないではない。しかし、岩国工場の幹部などの責任を問う場合は格別、被告人のような一介の作業員に対し、水圧テストの際の手順という技術的専門的な知識を要する事項について、同工場から一定の基準に基づく教育を受け、その教育の内容のとおり実行するよう厳重に指示されているのにかかわらず、同じような教育を受けている尾園が前述したような合図をした後、フードが間もなく閉まることを知つているはずであるのに、フードと鉄製側壁との間に体の上部を突つ込むというような右の教育、指示に反する極めて異常かつ危険な行動をする可能性を特段の事情もないのに予測し、同工場からの教育、指示以上の又は教育、指示に反する前記のような安全確認のための注意を要求することは困難である。してみると、本件において被告人には、岩国工場から受けた教育に従つてした安全確認の措置以上の又はこれに反する注意をして、尾園が所定の位置にとどまつているかどうかを確認するなど同人の安全を確認しないと尾園に危険が生ずる虞があることの予見可能性はなく、被告人には尾園の安全確認についての過失がないものというべきである。

以上の次第であるから、原判決は、被告人が尾園の安全を充分に確認しないで操作盤のボタンを押した過失があると認定した点においても、事実を誤認しているというほかはない。

六  してみると、原判決は、被告人に尾園からの合図を受けていないのに合図があつたものと誤信し、同人の安全を充分に確認しないで操作盤のボタンを押した過失があると認定した点において事実を誤認し、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、その余の控訴趣意について判断をするまでもなく破棄を免れない。論旨は理由がある。

よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、当裁判所において直ちに次のとおり判決する。

本件公訴事実の主位的訴因は別紙のとおりであつて(原判決の罪となるべき事実とおおむね同旨)、当審において予備的に変更された訴因は、主位的訴因中「軽信し、同人との安全を確認せず」とあるのを「軽信し、かつ同人が所定の位置にとどまつているかどうかを確認しないで」と改めるほかは主位的訴因と同一であるところ、被告人に主位的訴因及び予備的訴因記載のような過失があつたことを認めるに足りる証拠がないことは、前に説示したところから明らかである。してみると、本件被告事件は、主位的訴因、予備的訴因ともに犯罪の証明がないから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対して無罪の言渡しをすることとする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 干場義秋 荒木恒平 竹重誠夫)

別紙

被告人は、岩国市日の出町二番一号所在の帝人ラツカー株式会社岩国工場製造部に勤務し油井用鋼管強度検査のため同工場水圧テスト室において、水圧検査業務に従事していたものであるが、昭和五五年三月一日午後一一時三〇分ころ、被告人は同所において鉄製防護壁の開閉操作盤の操作とプロテクター作業に従事し、尾園栄次(当時五〇年)は被告人とペアで水圧テストとプロテクター作業に従事していたので鉄製防護壁を閉じる操作ボタンを押す者としては、同会社の作業安全規程に定められたとおり、相手作業員尾園からの挙手又は笛等による合図を確認するはもちろんのこと、同人の周囲の安全を確認したうえでボタンを操作し危険の発生を防止しなければならない業務上の注意義務があるのにこれを怠り、仕事の慣れから合図を受けたものと軽信し、同人との安全を確認せず安易に操作盤のボタンを押した過失により、防護壁に接近してウエイング作業場の工員と作業工程を話し合つていた右尾園を防護壁に巻き込み、よつて肝破裂脾破裂等の傷害を負わせ、翌二日午前四時ころ、岩国市黒磯町二丁目五番一号国立岩国病院において前記傷害により死亡させたものである。

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